宗派に関する質問?

浄土真宗の歴氏


 真宗大谷派の宗祖は親鷲聖人(1173〜1262)です。親鴛は九歳の時、で比叡山にて仏門に帰依しました。その後、勉学修行を積んだ親鸞は二十九歳で比叡山を下り、京都の六角堂にて百ヶ日間の参籠を行いました。そして参籠、九十五日目にして聖徳太子の夢告を得て、法然上人の弟子になりました。ところが法然の念仏教団(浄土宗)が広まるにつれて、旧教団の人々の反感を買い、承元元年(1207)念仏禁制の圧力により法然は讃岐に、親鴛は越後へと流罪に処されました。
 越後に流された親鷲は、豪族の三条為教の娘、恵信尼と結婚し子供をもうけ、そしてこの地で積極的に布教活動を行いました。(当時の仏教界では僧侶は妻帯を禁じられていましたが、師の法然は弟子に対して念仏を称えるうえで妨げにならない限り、妻帯することを許していたのです。)
 越後に流された五年の後に流罪を解かれましたが、親鸞は都へは帰らず、東国へ向かい常陸国(現在の茨城県)を拠点として人々に念仏の教えを説きました。
 こうしたなかで、元仁元年(1224)に「教行信証」を著しました。(浄土真宗ではこの書を「本典」と崇拝し、この年を「立教開宗」の年としています。)
 六十三歳で都に帰った親鷲は京都東山大谷に廟所をかまえ、著述に専念し「教行信証」を完成させたほか「三帖和讃」など多数の著書を残しました。また、この上人の廟所が後に本願寺と称されるようになったそうです。
 親鷲の滅後、室町時代に第八代の蓮如上人は親鴛の教えを簡明に説いた「御文書」(または「御文」)の著述や、朝夕の勤行のための「正信偏・和讃」の刊行に努め、これにより本願寺の教線は全国に更なる広がりを見せました。それらの功績から蓮如は浄土真宗中興の祖とまで称されています。
 第十一代の顕如の後、東・西両本願寺に分立し現在に至っています。本願寺はもとは一つだったのです。

 東本願寺を総本山とするのが真宗大谷派、西本願寺を総本山とするのが浄土真宗本願寺派です。それぞれ約一万ヶ寺の末寺を有し日本では最大の信者数を持つ宗派の一つです。そのほかにも三重県津市の専修寺を本山とする真宗高田派、京都の仏光寺を本山とする真宗仏光寺派などがあります。


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