浄土宗は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての「仏教が廃れることで世の中が乱れ、天変地異が起こる。」という末法思想が蔓延していたころに、法然上人により開かれました。その当時、末法思想を助長するかのごとく源平合戦が起り、世の中は乱れ、人々は不安におぼれていました。また、仏教はまだ一般の民衆には門戸を開いておらず、人々は仏に救いを求める事もままならなかったのです。
それらを見かねた法然は、凡夫が救われる道はただただ念仏を唱える"専修念仏"であると説き、布教を行った。読み書き出来る者さえ少なかったその時代、厳しい修行もなく、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでよいという教えは、人々が救いを求めていた時代とあいまって、爆発的に民衆の間に広まっていきました。また、その当時は新興宗教であり、貴族中心の従来の仏教教団の反発に会った法然は、ある事件をきっかけに後鳥羽上皇の怒りに触れ、弟子の親鸞らとともに流罪に処されました。流罪自体は1年で解かれましたが帰洛は許されず、これにより広く布教活動を行った浄土宗は、ますます民衆に広がる事になり、それまで貴族や士族が中心だった仏教がようやく大衆化されたのです。
また、法然の没後も宗勢は衰えることなく、多くの門弟達が念仏の布教に尽力を尽くしました。
浄土宗のこうした発展は、後の念仏宗に多大な影響を与え、浄土真宗の親鸞や、時宗の一遍などを世に送り出すこととなるのです。
|